芥川 竜之介
南京の基督
一
或秋の夜半であつた。南京奇望街の或家の一間には、色の蒼ざめた支那の少女が一人、古びた卓の上に頬杖をついて、盆に入れた西瓜の種を退屈さうに噛み破つてゐた。
卓の上には置きランプが、うす暗い光を放つてゐた。その光は部屋の中を明くすると云ふよりも、寧ろ一層陰欝な効果を与へるのに力があつた。壁紙の剥げかかつた部屋の隅には、毛布のはみ出した籐の寝台が、埃臭さうな帷を垂らしてゐた。それから卓の向うには、これも古びた椅子が一脚、まるで忘れられたやうに置き捨ててあつた。が、その外は何処を見ても、装飾らしい家具の類なぞは何一つ見当らなかつた。
少女はそれにも関らず、西瓜の種を噛みやめては、時々涼しい眼を挙げて、卓の一方に面した壁をぢつと眺めやる事があつた。見ると成程その壁には、すぐ鼻の先の折れ釘に、小さな真鍮の十字架がつつましやかに懸つてゐた。さうしてその十字架の上には、稚拙な受難の基督が、高々と両腕をひろげながら、手ずれた浮き彫の輪廓を影のやうにぼんやり浮べてゐた。少女の眼はこの耶蘇を見る毎に、長い睫毛の後の寂しい色が、一瞬間何処かへ見えなくなつて、その代りに無邪気な希望の光が、生き生きとよみ返つてゐるらしかつた。が、すぐに又視線が移ると、彼女は必吐息を洩らして、光沢のない黒繻子の上衣の肩を所在なささうに落しながら、もう一度盆の西瓜の種をぽつりぽつり噛み出すのであつた。