泉 鏡花

旅僧

上

去にし年秋のはじめ、汽船加能丸の百餘の乘客を搭載して、加州金石に向ひて、越前敦賀港を發するや、一天麗朗に微風船首を撫でて、海路の平穩を極めたるにも關はらず、乘客の面上に一片暗愁の雲は懸れり。

蓋し薄弱なる人間は、如何なる場合にも多くは己を恃む能はざるものなるが、其の最も不安心と感ずるは海上ならむ。

然れば平日然までに臆病ならざる輩も、船出の際は兎や角と縁起を祝ひ、御幣を擔ぐも多かり。「一人女」「一人坊主」は、暴風か、火災か、難破か、いづれにもせよ危險ありて、船を襲ふの兆なりと言傳へて、船頭は太く之を忌めり。其日の加能丸は偶然一人の旅僧を乘せたり。乘客の暗愁とは他なし、此の不祥を氣遣ふにぞありける。

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