岡本 かの子
雛妓
なに事も夢のようである。わたくしはスピードののろい田舎の自動車で街道筋を送られ、眼にまぼろしの都大路に入った。わが家の玄関へ帰ったのは春のたそがれ近くである。花に匂いもない黄楊の枝が触れている呼鈴を力なく押す。
老婢が出て来て桟の多い硝子戸を開けた。わたくしはそれとすれ違いさま、いつもならば踏石の上にのって、催促がましく吾妻下駄をかんかんと踏み鳴らし、二階に向って「帰ってよ」と声をかけるのである。
すると二階にいる主人の逸作は、画筆を擱くか、うたた寝の夢を掻きのけるかして、急いで出迎えて呉れるのである。「無事に帰って来たか、よしよし」
この主人に対する出迎えの要求は子供っぽく、また、失礼な所作なのではあるまいか。わたくしはときどきそれを考えないことはない。しかし、こうして貰わないと、わたくしはほんとに家へ帰りついた気がしないのである。わが家がわが家のあたたかい肌身にならない。