芥川 竜之介
素戔嗚尊
一
高天原の国も春になった。
今は四方の山々を見渡しても、雪の残っている峰は一つもなかった。牛馬の遊んでいる草原は一面に仄かな緑をなすって、その裾を流れて行く天の安河の水の光も、いつか何となく人懐しい暖みを湛えているようであった。ましてその河下にある部落には、もう燕も帰って来れば、女たちが瓶を頭に載せて、水を汲みに行く噴き井の椿も、とうに点々と白い花を濡れ石の上に落していた。――
そう云う長閑な春の日の午後、天の安河の河原には大勢の若者が集まって、余念もなく力競べに耽っていた。