田中 貢太郎
狐の手帳
一
幕末の比であった。本郷の枳殻寺の傍に新三郎と云う男が住んでいたが、その新三郎は旅商人でいつも上州あたりへ織物の買い出しに往って、それを東京近在の小さな呉服屋へ卸していた。それは某年の秋のこと、新三郎の家では例によって新三郎が旅に出かけて往ったので、女房のお滝は一人児の新一と仲働の老婆を対手に留守居をしていた。
もう蚊もいなくなって襟元の冷びえする寝心地の好い晩であった。お滝はその年十三になる新一を奥の室へ寝かして、己は主翁の室となっている表座敷で一人寝ていたが、寝心地が好いのでぐっすり睡っていたところで、不思議な感触がするので吃驚して飛び起きた。枕頭に点けた丁字の出来た有明の行灯の微暗い光が、今まで己と並んで寝ていたと思われる壮い男の姿を照らしていた。お滝はびっくりするとともに激しい怒が湧いて来たので、いきなりその不届者を掴み起そうとした。
「お前さんは、何人だね、起きておくれよ」