徳田 秋声
黴
一
笹村が妻の入籍を済ましたのは、二人のなかに産れた幼児の出産届と、ようやく同時くらいであった。
家を持つということがただ習慣的にしか考えられなかった笹村も、そのころ半年たらずの西の方の旅から帰って来ると、これまで長いあいだいやいや執着していた下宿生活の荒れたさまが、一層明らかに振り顧られた。あっちこっち行李を持ち廻って旅している間、笹村の充血したような目に強く映ったのは、若い妻などを連れて船へ入り込んで来る男であった。九州の温泉宿ではまた無聊に苦しんだあげく、湯に浸りすぎて熱病を患ったが、時々枕頭へ遊びに来る大阪下りの芸者と口を利くほか、一人も話し相手がなかった。
「どういうのがえいのんや。私が気に入りそうなのを見立てて上げるよって……東京ものは蓮葉で世帯持ちが下手やと言うやないか。」笹村が湯に中って蒼い顔をして一トまず大阪の兄のところへ引き揚げて来たとき、留守の間に襟垢のこびりついた小袖や、袖口の切れかかった襦袢などをきちんと仕立て直しておいてくれた嫂はこう言って、早く世帯を持つように勧めた。