徳冨 蘆花
謀叛論(草稿)
僕は武蔵野の片隅に住んでいる。東京へ出るたびに、青山方角へ往くとすれば、必ず世田ヶ谷を通る。僕の家から約一里程行くと、街道の南手に赤松のばらばらと生えたところが見える。これは豪徳寺――井伊掃部頭直弼の墓で名高い寺である。豪徳寺から少し行くと、谷の向うに杉や松の茂った丘が見える。吉田松陰の墓および松陰神社はその丘の上にある。井伊と吉田、五十年前には互に倶不戴天の仇敵で、安政の大獄に井伊が吉田の首を斬れば、桜田の雪を紅に染めて、井伊が浪士に殺される。斬りつ斬られつした両人も、死は一切の恩怨を消してしまって谷一重のさし向い、安らかに眠っている。今日の我らが人情の眼から見れば、松陰はもとより醇乎として醇なる志士の典型、井伊も幕末の重荷を背負って立った剛骨の好男児、朝に立ち野に分れて斬るの殺すのと騒いだ彼らも、五十年後の今日から歴史の背景に照らして見れば、畢竟今日の日本を造り出さんがために、反対の方向から相槌を打ったに過ぎぬ。彼らは各々その位置に立ち自信に立って、するだけの事を存分にして土に入り、余沢を明治の今日に享くる百姓らは、さりげなくその墓の近所で悠々と麦のサクを切っている。
諸君、明治に生れた我々は五六十年前の窮屈千万な社会を知らぬ。この小さな日本を六十幾つに劃って、ちょっと隣へ往くにも関所があり、税関があり、人間と人間の間には階級があり格式があり分限があり、法度でしばって、習慣で固めて、いやしくも新しいものは皆禁制、新しい事をするものは皆謀叛人であった時代を想像して御覧なさい。実にたまったものではないではないか。幸に世界を流るる一の大潮流は、暫く鎖した日本の水門を乗り越え潜り脱