牧 逸馬
上海された男
※(ローマ数字1、1-13-21)
夜半に一度、隣に寝ている男の呻声を聞いて為吉は寝苦しい儘、裏庭に降立ったようだったが、昼間の疲労で間もなく床に帰ったらしかった。その男は前日無免許の歯医者に歯を抜いて貰った後が痛むと言って終日不機嫌だった。為吉が神戸中の海員周旋宿を渡り歩いた末、昨日波止場に近いこの合宿所へ流れ込んで、相部屋でその男と始めて会った時も、男は黙りこくって、煩そうに為吉を見やった丈けだった。
彼は近海商船の豊岡丸から下船した許りの三等油差しだという話だった。遠航専門の甲板部の為吉とは話も合わないので、夜っぴて唸っていても、為吉は別に気に止めなかったのである。
油臭い蒲団の中で、朝為吉が眼を覚ました時には、隣の夜具は空だった。彼は別に気に止めなかった。それよりも既う永い間、陸にいる為吉には機関の震動とその太い低音とが此の上なく懐しかった。殊に朝の眼覚めには、それが一入淋しく感じられた。