森 鴎外

津下四郎左衛門

津下四郎左衛門は私の父である。(私とは誰かと云ふことは下に見えてゐる。)しかし其名は只聞く人の耳に空虚なる固有名詞として響くのみであらう。それも無理は無い。世に何の貢献もせずに死んだ、艸木と同じく朽ちたと云はれても、私はさうでないと弁ずることが出来ない。

かうは云ふものの、若し私がここに一言を附け加へたら、人が、「ああ、さうか」とだけは云つてくれるだらう。其一言はかうである。「津下四郎左衛門は横井平四郎の首を取つた男である。」

丁度世間の人が私の父を知らぬやうに、世間の人は皆横井平四郎を知つてゐる。熊本の小楠先生を知つてゐる。

私の立場から見れば、横井氏が栄誉あり慶祥ある家である反対に、津下氏は恥辱あり殃咎ある家であつて、私はそれを歎かずにはゐられない。

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