太宰 治

陰火

誕生

二十五の春、そのひしがたの由緒ありげな學帽を、たくさんの希望者の中でとくにへどもどまごつきながら願ひ出たひとりの新入生へ、くれてやつて、歸郷した。鷹の羽の定紋うつた輕い幌馬車は、若い主人を乘せて、停車場から三里のみちを一散にはしつた。からころと車輪が鳴る、馬具のはためき、馭者の叱咤、蹄鐵のにぶい響、それらにまじつて、ひばりの聲がいくども聞えた。

北の國では、春になつても雪があつた。道だけは一筋くろく乾いてゐた。田圃の雪もはげかけた。雪をかぶつた山脈のなだらかな起伏も、むらさきいろに萎えてゐた。その山脈の麓、黄いろい材木の積まれてあるあたりに、低い工場が見えはじめた。太い煙突から晴れた空へ煙が青くのぼつてゐた。彼の家である。新しい卒業生は、ひさしぶりの故郷の風景に、ものうい瞳をそつと投げたきりで、さもさもわざとらしい小さなあくびをした。

さうして、そのとしには、彼はおもに散歩をして暮した。彼のうちの部屋部屋をひとつひとつ※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)つて歩いて、そのおのおのの部屋の香をなつかしんだ。洋室は藥草の臭氣がした。茶の間は牛乳。客間には、なにやら恥かしい匂ひが。彼は、表二階や裏二階や、離れ座敷にもさまよひ出た。いちまいの襖をするするあける度毎に、彼のよごれた胸が幽かにときめくのであつた。それぞれの匂ひはきつと彼に都のことを思ひ出させたからである。

青空文庫の作品カード