宮本 百合子
心に疼く欲求がある
一
こんにち、私たちの生活感情の底をゆすって、一つのつよい要求が動いている。それは、日本の現代文学は総体として、その精神と方法とにおいて、きわめて深いところから鋤きかえされる必要があるという疼痛のような自覚である。
この欲求は、こんにちに生きる私たち多くのものにとって理性の渇望となっている。
五年来、現代文学は、社会性の拡大、リアリティーのより強壮で立体的な把握と再現とを可能にする方法の発見を課題として来た。そのための試みという名目のもとには、少からぬ寛容が示されて来た。しかし文学現象は、その寛容の谷間を、戦後経済の濁流とともにその日ぐらしに流れて、こんにちでは、そのゴモクタが文学の水脈をおおいかくし、腐敗させるところまで来ている。ちかごろあらわれる実名小説というものも、そこにどういう理窟がつけられようとも、日本の現実におけるそれらの作品の大部分は、私小説から一層文学としての努力をぬきにしてそれを裏がえしたものにすぎない。現代文学の方法が、そのようなタコ壺にはまったとき、われわれの心には五年間の寛容について、責任をかえりみるこころもちがわいて来ている。