宮本 百合子
概念と心其もの
一
最近自分の生活の上に起った重大な変動は、種々な点で自分の経験を深めて呉れたと同時に、心に触れる対象の範囲をも亦広めて呉れた。今までは或る知識として、頭で丈解っていた生活の内容が、多少なりとも体験された。自分の箇性の傾向から必然に成って来た或る運命に真正面から打ち当って見ると、又、全心全身でぶつかって行かずには済まされないような大きな力を感じて見ると、好い加減と云うに近い諸々の概念は、皆真実の熱火に焼き尽されてしまう。
自分の生活や、人々の生活を外から直接間接に圧包み、何等かの変型やこじつけを強いていた物が無く成ると、始めてその奥に在った箇々が現われて来る。一つとして同じものの無い箇々の生活が、ありの儘の色彩と傾向とで姿を現わすのである。
今日我々の理性はたとい如何に所謂実生活に対する自己の体験が貧弱でも、人類の箇性の存在を理論的に認め得る丈けの力は持っていると思う。従って、箇性の差異に連れて起る箇々の生活内容及び様式の相異を理解し、その価値を正当に批判すべきことは、もう公理なのだとも思われる。一方から云えば、解り切った事だと云えるだろう。けれども、自分は、そう雑作なく解り切った事だとは、自分に対して云い切れない。なかなか容易な事で、本当の処へは行けないものだと思う。少くとも自分は、小理屈や負惜しみ等で胡麻化し切れない本然な力の爆発に、或る部分の「我」を粉微塵に吹飛ばされて見て、始めて他人と自分とをその者本来の姿で見る事を幾分か習い始めたと云えるのである。