宮本 百合子
山の彼方は
よく、あの人は常識があるとか、常識がないとかいう。生活の普通の言葉として、私たちが使っている常識というのは、どういうものなのだろう。
世間普通に、誰でも知っているはずのいろいろなこと、判断の標準、善悪の分けめ、それらをひっくるめて私たちは常識といっていると思う。従って歴史の時代に応じて、常識の内容にもずいぶん大きな変化が起ってくる。今日私たちは、ギリシャの彫刻を非常に尊重して、たとえば、ミロのヴィーナスなどといえば、それこそ常識の範囲でも立派なものとしてうけいれられているのであるけれども、そのギリシャの彫刻にしろ、文芸復興までの暗い中世の時代には、常識がきびしい宗教の重しで窒息させられていて、たまに廃墟から現れる美しい古代の裸体像は、悪魔の白い鬼として恐怖された。いつでも、それぞれの形で私たちの常識は時代というものに大きい枠づけをされていることは争えない。二百年を今日いっときのなかで飛びこえることは個人の力でないのである。
けれども、歴史と個人との関係は、個人にとって受身なその一面だけではなくて、一方で時代に影響されながらその反面では究極のところ歴史を動かす動力としてそれぞれの個人の時代への働きかけの具合が決定的な意味をもっているということもなかなか面白いところだと思う。この意味では私たちも今日の常識によってさまざまに支配されつつまた一面でその常識を発達させてゆく因子となっている。
清少納言という人は当時の女流の文筆家の中でも才気煥発な、直感の鋭い才媛であったことは枕草子のあらゆる描写の鮮明さ、独自な着眼点などで誰しも肯うところだと思う。枕草子の散文として独特な形そのものも清少