宮本 百合子

今日の生活と文化の問題

文化という二つの文字に変りはないようだけれども、歴史のそれぞれの時代で文化の示す様相は実に変化の激しいものがある。そして、文化が危期におかれるという現実もあり得るのである。

大体私たちは日常の言葉として文化を云う場合、それはいつも人間生活の何かの進歩、何かの知慧の明るさ、醜いものより美しさに近づいたものを考えているのだと思う。昔ながらの煽げば煙たいへっついでも、幾らか改良を加えれば、それに文化という字をつけて文化竈と呼ぶようなものである。私たち人間の自然な心には、成長を歓ぶ心、進歩を求める欲求が深く潜んでいて、文化という表現に人々が我知らず籠めている内容には貴重な人類としての希望が語られているのである。

文化の実質はそういう人間らしさに立っているものであるにかかわらず、或る時代の風潮としては、文化の欲求や文化の蓄積された成長の段階がその時代の様々の動きを批評し判断する当然の作用を持っていることをよろこばず、自分の頭を自分の拳固で殴りつけるように、文化を否定したり、これまでの文化をよくないものときめたりする傾向も現れる場合がある。自分の拳固で殴った位では自然が巧妙に大切にこしらえてくれた頭はこわれないからと云って、壁へ向ってその頭をぶつけっこして、よりつよくぶつけるのが偉いように誇る人間もいると云えば、人々はその愚かさを笑うであろう。それは目に見える愚劣さだからである。けれども、文化に関する同じような愚劣さは、もっと複雑な、もっと形にあらわれない流れとなって私たちの生活へ浸潤して腐敗の作用を及ぼしてゆくために、同じ程度の奇怪な愚劣さでも案外恐れられずにいることが多い。

この風潮は

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