中里 介山
大菩薩峠
一
天誅組がいよいよ勃発したのは、その年の八月のことでありました。十七日には大和五条の代官鈴木源内を斬って血祭りにし、その二十八日は、いよいよ総勢五百余人で同国高取の城を攻めた日。その翌日、十津川へ退いて、都合二千余人で立籠った時の勢いは大いに振ったもので、この分ならば都へ攻め上り、君を助けて幕府を倒すこと近きにありと勇み立ち、よく戦いもしたけれど、紀州、藤堂、彦根、郡山、四藩の大兵を引受けてみて、力が足りないのは是非もないことでした。
侍従中山忠光は浪花へ落ち、松本奎堂、藤本鉄石、吉村寅太郎らの勇士は、或いは戦死し、或いは自殺して、義烈の名をのみ留めた――十津川の乱の一挙は近世勤王史の花というべく、詳しく書けば、ここにまた一つの物語を見出されようけれども、それはここに必要を認めず。いよいよ、これらの一味の者が散々になって、或る者は伊勢路へ、或る者は紀州領へ、或る者は大阪方面を指して、さまざまに姿を変えて落ちた後のことであります。
鷲家口の戦いから落ち延びた十一人の浪士が、木にも草にも心を置いて風屋村というところへさしかかって、