宮本 百合子
逆立ちの公・私
先ごろ、ある婦人雑誌で、婦人の公的生活、私的生活という話題で、座談会を催す計画があったようにきいた。何かの都合で、それは実現されなかった。しかし、その話をきいたとき、わたしは、それは面白い話題のつかみかただと思った。提案者の意企は、どういうところにあったか知らないけれども、今日の日本の現実と向い合ってこのテーマが出て来るからには、まさか、婦人の参政権に伴って、婦人の日常性の中で、公的生活と、私的生活とは、どう調和するか、或は、どう調和させて行くべきかというような、官僚じみた視点に立って出されたのではないであろう。
真にこのテーマが、今のわたし達の生きている現実の中で出された場合、先ず、今日の公的生活とは何であり、私的生活とは何であるか、そこから新しく見直されてゆかなければならない状況にある。そこから課題が展開されて、はじめて、生きた話となってゆくのではなかろうか。わたしは、そう考えた。
公的生活、私的生活ときいたとき、心に閃いたのは、現代の日本人民の生活では、実質的に、その二つが互に入れ替ってしまっている、という事実であった。私的生活という名で区分されていた日々の生活の諸面におこっているあらゆる問題のすべては公的な性質を帯びている。そして、習慣的に公的と思われて来た社会活動の面に夥しい私的生活がまぎれ込んで来ている。つまり、今日の日本では、二つのものが、さかさまになっているのではあるまいか。
明治からの日本の文化史をみれば、われら日本の民草というものが、ただの一度もヨーロッパ諸国の市民たちが経過した市民社会の生活経験というものをもっていないことは、明かな事実である。長い長い封建