宮本 百合子

文化生産者としての自覚

谷崎潤一郎の小説に「卍」という作品がある。その本が一冊千円で売られる話をきいた。小売店では、いくらなんでもとあやぶんでいたところ案外に買手がある。今時の金は、ある所にはあるものだ、という驚きとむすびつけて話された。荷風もよく売れる。谷崎や荷風のものは、情痴といわゆる遊びの世界にひかれて、文学そのものには全く縁のない闇屋が最近愛読しているということも話された。そのとき「闇屋の作家」という表現が与えられていてわたしを驚かした。

六七年前、インフレーションがはじまって、それはまだ軍需インフレと呼ばれていた頃、書籍とインフレーションの関係で、新しい插話が生れた。その中に、インフレーションで急に金まわりのよくなった若い職工さんが、紀伊国屋書店にあらわれて、百円札を出し、これだけ本をくれ、といったという話がひろくつたえられた。出版インフレと云われて、今日になれば価値も乏しい文学書も溢れていたときのことである。

みかんかりんごを買うように、これだけ本をくれと百円札を出したにしろ、その若い職工さんは、ともかく本が何か心のたしになると思って買う気になったのだろう。ちょうど、みかんは主食にならないけれど、みかんのヴィタミンは、身体にいいと知っていたように。ところが、こんにち谷崎、荷風のものなら「闇屋が買うから」といわれていることには、おのずからちがった意味がある。

作家が自分の本をいつ、誰に、何処で読まれるかということについては、これまできわめて受動的な立場にいた。読みたい人は誰でも読み、そしてまた誰でも読むということがその作家の社会的な商売的な存在のひろさをはかることでもあった。だから谷崎、荷風

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