幸田 露伴
些細なやうで重大な事
人間には色々の仕草があるがつゞめて言へば、事に処すると、物に接するとの二ツになる、事に処すると云ふは、其処に生じて来た或る事情に対して、如何云ふ様に自分の態度を執るか、了見を定めるか、口を利くか、身体を動かすか、智慧を回らすか、力を用ふるかといふ事である。
事に処するは、非常に多端である。何となれば、其処に生ずる事情は、際限なく種々様々な形を以て現はれて来るから、之に対する道も決して一通りや二通りでない訳で、大体は道理の正しきに従ひ、人情の美しきに従ふべきではあるが、さりとて一様に言ひ切れぬ。或時は手強く、或時は誠実一方で、亦或時は便宜に従ふを宜しいとする場合もある。
そこで、今それは暫くとして、物に接するといふ方を申さうならば、一体この物といふのは事と違つて死物である。事の方は事情であるから、千差万別が限りなく、変化百端動いて止まざるものであるが、物の方は、これも万物と云つて際限なく数多いものであるが、はるかに静的である。
例えば、此処に茶碗がある、茶卓がある、土瓶がある、鉄瓶があるといふ如く、此等の物も実に測り知られざる数であるが、兎に角我心以外の物であつて、所謂物質といふ言葉で尽されるもので、その一箇一箇は固定してゐる。勿論、物質そのものも変化せぬではない。水が湯となり氷となるが、人生の事情の多端錯雑、変幻極まりなきに比べてはるかに簡単であり、したがつて物に接するは、事に処するよりも単純であるが、それでも本当に物に接するといふことに徹底するには、大分の知慮分別と、鍛練修業を必要とする。