泉 鏡花
開扉一妖帖
ただ仰向けに倒れなかったばかりだったそうである、松村信也氏――こう真面目に名のったのでは、この話の模様だと、御当人少々極りが悪いかも知れない。信也氏は東――新聞、学芸部の記者である。
何しろ……胸さきの苦しさに、ほとんど前後を忘じたが、あとで注意すると、環海ビルジング――帯暗白堊、五階建の、ちょうど、昇って三階目、空に聳えた滑かに巨大なる巌を、みしと切組んだようで、芬と湿りを帯びた階段を、その上へなお攀上ろうとする廊下であった。いうまでもないが、このビルジングを、礎から貫いた階子の、さながら只中に当っていた。
浅草寺観世音の仁王門、芝の三門など、あの真中を正面に切って通ると、怪異がある、魔が魅すと、言伝える。偶然だけれども、信也氏の場合は、重ねていうが、ビルジングの中心にぶつかった。
また、それでなければ、行路病者のごとく、こんな壁際に踞みもしまい。……動悸に波を打たし、ぐたりと手をつきそうになった時は、二河白道のそれではないが――石段は幻に白く浮いた、卍の馬の、片鐙をはずして倒に落ちそうにさえ思われた。