田中 貢太郎

花の咲く比

暖かな春の夜で、濃い月の光が霞のかかったように四辺の風物を照らしていた。江戸川縁に住む小身者の壮い侍は、本郷の親類の許まで往って、其処で酒を振舞われたので、好い気もちになって帰って来た。

夜はかなりに更けていたが、彼は独身者で、家には彼を待っている者もないので、急いで帰る必要もなかった。彼はゆっくりと歩きながら、たまに仲間に提灯を持たした女などが擦れ違うと揮り返って見た。伝通院の前では町家の女が母親らしい女に伴られて来るのに逢った。彼は足を止めてその白い横顔を見送っていた。

桜の花が何処からともなく散る処があった。その花片は頬にもそっと当った。彼にはそれが春の夜がする手触りのように思われた。歩いているうちに、地べたも両側の屋敷も腰の刀も、己の形骸も無くなった。有るものは華やかな雲のような物で、その雲の間から、黒い瞳や、白い顔や、しんなりした肩や、円みのある腰などがちらちらした。

切支丹の山屋敷の手前の坂をおりて、坂の中程まで往くと、侍は右側の桜の樹の下に人影を見つけた。咲き乱れた花の梢には、朧に見える月の姿があった。花は音もなくちらちらと散って、その人影の上にも落ちていた。

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