宮本 百合子
思い出すこと
レーク・Gへ行く前友達と二人で買った洋傘をさし、銀鼠の透綾の着物を着、私はAと二人で、谷中から、日暮里、西尾町から、西ケ原の方まで歩き廻った。然し、実際、家が払底している。時には、間の悪さを堪え、新聞を見て、大崎まで行き、始めて大家と云うものの権柄に、深い辱しめを感じたこともある。また、寛永寺の傍の、考えても見すぼらしい家を、探しあきて定めようとしたことなどもある。
丁度、その頃赤門の近くに、貸家を世話する商売人があったので、そこへ行って頼んだ。三十円位で、ガスと水道のある、なるたけ本郷区内という注文をしたのである。
考えて見ると、それから一年位経つか経たないうちに、外国語学校教授で、英国官憲の圧迫に堪えかねて自殺したという、印度人のアタール氏を始めて見たのがその周旋屋の、妙に落付かない応接所であった。
今顧ると、丁度その夏は、貸家払底の頂上であったことが分る。継いて、内務省の取締りを受けない貸家周旋人が、市内には殆ど無数あった。中には随分曖昧な、家賃一ヵ年分を報酬として請求するとか、三月分を強請されて、家はどうにか見付かったが、その片をつけるに困ったとかいう噂が彼方此方にあった。私共も、自分で探していたのでは到底、何時になったら見付かるか、見当もつかないような有様であったので、窮した結果、頼んだのではあったが、始めて行った時には、不安な、油断のならない心持がした。