芥川 竜之介

微笑

僕が大学を卒業した年の夏、久米正雄と一緒に上総の一ノ宮の海岸に遊びに行つた。それは遊びに行つたといつても、本を読んだり、原稿を書いたりしてゐたには違ひないが、まあ一日の大部分は海にはひつたり、散歩したりして暮してゐた。

或暮方、僕等は一ノ宮の町へ散歩に行き、もう人の顔も見えない頃、ぶらぶら宿の方へ帰つて来た。道は宿へ辿り着くためには、弘法麦や防風の生えた砂山を一つ越えなければならぬ。丁度、その砂山の上に来た時、久米は何か叫ぶが早いか一目散に砂山を駆け降りて行つた。僕はどうしたのだかわからなかつたが、兎に角、何か駆けなければならぬ必要があるのだらうと思つたから、矢張、その後から駆け出すことにした。それは人目のない砂山の上に、たつた独り取残されるのは薄気味悪いといふことも手伝つてゐるのに違ひない。しかし、久米は何といつても中学の野球の選手などをしたことのある男である。僕はまだ一町と駆けないうちに、忽ち久米の姿を見失つてしまつた。

十分ばかり経つた後、僕は息を切らしながら、当時僕等の借りてゐた、宿の離室に帰つて来た。離室はたつた二間しかない。だから見透かし同様なのだが、どこにも久米の姿は見えなかつた。しかし、下駄のぬいであるところを見ると、兎に角、帰つて来てゐるのには違ひない。そこで僕は大きな声を出して、

「おい、久米。」

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