尾崎 紅葉
硯友社の沿革
夙て硯友社の年代記を作つて見やうと云ふ考を有つて居るのでありますが、書いた物は散佚して了ふし、或は記憶から消え去つて了つた事実などが多い為に、迚も自分一人で筆を執るのでは、十分な事を書く訳には行かんのでありますから、其の当時往来して居つた人達に問合せて、各方面から事実を挙げなければ、沿革と云ふべき者を書く事は出来ません、
其に就て不便な事は、其昔朝夕に往来して文章を見せ合つた仲間の大半は、始から文章を以て身を立る志の人でなかつたから、今日では実業家に成つて居るのも有れば工学家に成つて居るのも有る、其他裁判官も有る、会社員も有る、鉄道の駅長も有る、中には行方不明なのも有る、物故したのも有る、で、銘々業が違ふからして自から疎遠に成る、長い月日には四方に散じて了つて、此方も会ふのが億劫で、いつか/\と思ひながら、今だに着手もせずに居ると云ふ始末です、今日お話を為るのは些の荒筋で、年月などは別して記憶して居らんのですから、随分私の思違ひも多からうと思ひます、其は他日善く正します、
抑も硯友社の起つたに就ては、私が山田美妙君(其頃別号を樵耕蛙船と云ひました)と懇意に成つたのが、其の動機でありますから、一寸其の交際の大要を申上げて置く必要が有る、明治十五年の頃でありましたか東京府の構内に第二中学と云ふのが在りました、一ツ橋内の第一中学に対して第二と云つたので、それが私が入学した時に、私より二級上に山田武太郎なる少年が居つたのですが、此少年は其の級中の年少者で在りながら、漢文でも、国文でも、和歌でも、詩でも、戯作でも、字も善く書いたし、画も少しは遣ると云つたやうな多芸の才子で、学課も中以上の