宮本 百合子
山峡新春
夜中の一時過、カラカラ、コロコロ吊橋を渡って行く吾妻下駄の音がした。これから女中達が髪結に出かけるのだと見える。
私共は火鉢を囲み、どてらを羽織って餅を焼きながらそれを聴いた。若々しい人声と下駄の音が次第に遠のき、やがて消えると、後に川瀬の響が高く冴えた。吊橋にこんもりかぶさって密生している椎の梢の上に黒い深夜の空があり、黒が温泉場らしく和んだ大気に燦いているのが雨戸越しにも感じられる。除夜の鐘も鳴らない大晦日の晩が、ひっそりと正月に辷り込んだ。
三ガ[#「ガ」は小書き]日の繁忙をさけて来ている浴客だが、島田に結った女中が朱塗りの屠蘇の道具を運んで部屋毎に、
「おめでとうございます。どうぞ本年もよろしく」