宮本 百合子

「女の一生」と志賀暁子の場合

先だっての新聞は元新興キネマの女優であった志賀暁子が嬰児遺棄致死の事件で、公判に附せられ、検事は実刑二年を求刑した記事で賑わいました。出廷する暁子として、写真も大きく載せられ、裁判所は此一人の女優の生涯に起った悲しい出来事の公判のために、傍聴券を出しました。検事の論告は暁子が母性を失っている、母たる資格を持たぬ女であると云う事から二年を求刑し、母性の典型として山本有三氏の小説「女の一生」を例に引きました。公判廷で検事が文学作品を例に論告を進めたと云う事は珍しい事で、人間らしい潤いを公判廷に与えたであろうと云う事が想像されます。

検事は「女の一生」の主人公が私生児を育てる為に此の世の波と戦い抜いた姿こそ母性の尊い姿である、暁子にはそれが無いと云う事を論ぜられたようでした。法律的な立場から見て嬰児を死に到らしめた処置が制裁される事は誰しもとやかく云うべきでない事は知っています。然し女であるものの心持からすると、この場合に云われている母性というものの解釈が何かぴったりしない所があります。山本有三氏が自身の作品を特殊な場合の引例に供せられた事につき、某新聞の文芸欄で感想を述べておられます中に今日の社会生活の情勢では、母になりたくてもなり得ない事情に置かれている女が何人いるであろうか、と云う意味の事を云って居られます。感想は未完でありますから山本氏の云われる事は結論まで明かではありませんけれども、私ども常識を持った一読者として「女の一生」をみた場合、作者は検事があの作品から引き出して来られたような形で母性を讚えたのではなくて、そのような自然な母の愛が此の世への出生をいため傷つけた私生児と

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