宮本 百合子
映画女優の知性
映画女優のあたまのよさが、一つの快適な美しさ、あるいは深い心と肉体の動きの感銘として作品のなかに十分活かされている場合をみると、大抵のとき、それは製作の方向、監督のみちびきかたと密接な関係をもっているように思える。したがって、映画女優のあたまのよさは一方に瑞々しい適応性や柔軟性をもっていなければならず、シルビア・シドニイというような女優は学問をやったという意味での頭脳はあるかもしれないが、例えば、カザリン・ヘッバーンの持っている感性としての溌剌としたあたまのよさのようなものは、もっていないのではないだろうか。
「大地」で阿蘭をやったときルイズ・レイナーは随分本気でとりくんでいたし、彼女の持っている聰明さ、内面の奥ゆきというようなものが省略された動作のかげに声をのんだ声として多くのものを語る力となっていた。同じこのひとが、「グレイト・ワルツ」のシュトラウス夫人では、阿蘭とはちがった、小川のような女心の可憐なかしこさ、しおらしい忍耐の閃く姿を描き出そうとしているのだが、その際、自分の持っている情感の深さの底をついた演技の力で、そういう人柄の味を出そうとせず、その手前で、いって見ればうわ声で、性格の特徴をあらわそうとしているために、出しおしみされているところから来る弱さと、どっと迸ったようなところとむらがあって、何かみていて引き入れられきれないものがある。こうしてみると、あたまのよさにもまた、おのずから沢山の性格と結びついたニュアンスがあって、面白いものだと思う。「青髯八人目の妻」でコルベールがいう一寸した科白を、ある日本の作家が女性の洗練された話術の感覚の見本としてほめていたが、果