寺田 寅彦
雑記(Ⅰ)
一 日比谷から鶴見へ
夏のある朝築地まで用があって電車で出掛けた。日比谷で乗換える時に時計を見ると、まだ少し予定の時刻より早過ぎたから、ちょっと公園へはいってみた。秋草などのある広場へ出てみると、カンナや朝貌が咲きそろって綺麗だった。いつもとはちがってその時は人影というものがほとんど見えなくて、ただ片隅のベンチに印半纏の男が一人ねそべっているだけであった。木立の向うにはいろいろの色彩をした建築がまともに朝の光を浴びて華やかに輝いていた。
こんなに人出の少ないのは時刻のせいだろうが、これなら、いつかそのうちにスケッチでも描きに来るといいという気がした。
四、五日たってから、ある朝奮発して早起きして、電車が通い始めると絵具箱を提げて出かけた。何年ぶりかで久し振りに割引電車の赤い切符を手にした時に、それが自分の健康の回復を意味するシンボルのような気がした。御堀端にかかった時に、桃色の曙光に染められた千代田城の櫓の白壁を見てもそんな気がした。