豊島 与志雄

蠱惑

――私はその頃昼と夜の別々の心に生きていた。昼の私の生命は夜の方へ流れ込んでしまった。昼間は私にとって空虚な時間の連続にすぎなかった。其処には淡く煙った冬の日の明るみと、茫然とした意識と、だらけ切った世界とが、倦怠の存在を続けているばかりだった。然し夜になると私の心は鏡の面のように澄んでくる。其処に映ずる凡ての物象は溌溂たる生気に覚醒むる。そして凡てがある深い生命の世界から覗く眼となるのだ。堅い表皮が破れ輪廓が壊れて、魂が表わにじっと眼を見張っている。それらの魂が私の心の中に甦えってくる。私が自分の魂の窓を開いて、その奥の眼に見えない心の世界を見つむる時、大きい歓喜を私は感ずる。私はその世界の中心に、万有を愛する玉座に着いて、息を潜め思いを凝らしていたのである。

――夕食がすむと私はよく散歩に出かけた。

何時も空の色が黝紺に輝き、そして生物の眼のように光りつつうち震える無数の燈火が、列をなして街路の両側に流れる。アスファルトを鋪いた真直の通りを、多くの人が黙って通って行く。私が一人、鋭い意識と深い心とに醒めて歩く時、凡てが私の世界のうちに飛び込み、やがて漉されて私の後ろの闇にとり残されるのであった。

私はラクダの毛織の長いマントを着、大きい鳥打帽を眼深にかぶって、それから頸巻で顔の下半分を包んだ。その頬の感覚が、特殊な私の世界に肉感の温味を与えた。

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