豊島 与志雄

掠奪せられたる男

山田は秀子の方が自分を誘惑したのだと思っていた。そして自分の方では、彼女を恋したのだと自ら云うだけの勇気はなかった。恋しなくとも男は女の奴隷(或る意味での)になることはあるものである。然し、彼女の誘惑の罠に喜んで、いくらかは自ら進んで、引懸っていったのは自分であると、彼は思っていた。二階の縁側に立って自分の通るのをじっと見下していたのは彼女だ。然しいつもその二階をそっと見上げたのは自分だった。彼女の姿が其処にないと、淡い失望を覚えたのは自分だった。然し彼女はそういう時、恐らく自分のことなんか考えもしないで階下の室に寝転んでいたのであろう。だが、門口に立っていたのは彼女だ。危くその前に足を止めようとしたのは自分だった。そして蠱惑的な微笑を見せたのは彼女だ。その微笑に、胸の動揺を押し包んだ笑顔を返したのは自分だった。それから、途にハンケチを落したのは彼女だ。然しそれを拾い上げたのは自分だった。

山田の心を最初に唆ったものは彼女の唇と眼とだった。少し厚みのある真紅な唇は、閉じるともなくまた開くともなく、ただ自然に二つ合さっていた。白い歯が――彼女の歯並は実際美事であった――その唇の間から、ちらりと見えるかと思うと、すぐにまた見えなくなった。二つの唇の合さった両角がぽつりと凹んで、其処にいつも人の心を引きつける陰影があった。遠くから見ると、その唇は笑っていた。近くで見ると、新鮮な肉体的な(もしこういう言葉が許されるなら)魅惑に満ちていた。その唇の上に、少し間を置いて――それは彼女の顔をいくらか下品に見せていた――低いつまらぬ鼻がついていた。その低い鼻が消えていると思われる眉根のあたりに

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