豊島 与志雄
或る男の手記
もう準備はすっかり整っている。準備と云っても、新らしい剃刀と石鹸と六尺の褌とだけだ。それが、鍵の掛った書棚の抽出の中にはいっている。私としては、愈々やれるかどうか、それを試してみるだけのことだ。然しその前に、一切のことを書き誌してみたい――と云うより寧ろ、文字というはっきりした形で考えてみたい。馬鹿げた欲求だということは分っているが、そうにでもしなければ、何かしら心に落着がつきにくいのだ。
とは云え、どこからどう書いていったものか、一寸見当がつきかねる。いろんなことが一時に持上った混乱した事件だけに、本当の筋道を辿りそこなうこともあるだろうし、重大な事柄を見落していることもあるだろうし、私の知らない隠れた事実もあるだろう。然しそんなことを心配していてはきりがない。自分を中心に――そうだ、この場に及んでもやはり自分だけが中心だ――ぐんぐん書いてゆく外はない。
ある日……表面的にはあの日が発端だった。からりと晴れた小春日和で、田舎には小鳥でも鳴いていそうな日だった。実際井ノ頭の木立の中には、小鳥の声が爽かに響いていた。そして私は、郊外の大気と日の光とに我を忘れてる光子を眺めて、小鳥のような女だと思ったのだった。そして私もまた、何かしら心が浮々としてきたのだった。……が、こんなに筆が先へ滑っては仕方がない。
その日の午前十時頃、私が会社の室で、何だか満ち足りない焦燥のうちに茫然としてる時……と云っても、そんな気持はその日に限ったことではなく、もう長い間の私の心の状態となっていたのだが、それは後で云おう。でその日もやはり、落着いたような落着かないような気分に浸って、ぼんやり煙草を吹かし