豊島 与志雄

早春

もともと、おれは北川さんとは何の縁故もない。街で偶然出逢っただけのことだ。

牛の煮込み……といっても、おもに豚の腸や胃や食道、特別には肝臓と心臓、そのこま切れを竹串にさして、鉄鍋でぐらぐら味噌煮にしたものだが、その鍋をかこんでアルコールを飲むという、この頃たいへんはやっている安直な飲み屋が、近くの街角に一つあった。

おれも時々鍋をつっつきに寄った。気むずかしそうな大人たちがいない場合は、コップ一二杯飲むこともあった。そこで、初めて北川さんに逢った。帽子はかぶらず、マントにちび下駄の姿で、髪を短かめに刈った頭がへんに大きく見え、浅黒くて艶のわるい顔は善良そうだった。年は三十五六で、飲みっぷりがよかった。鍋の物はあまり食べず、焼酎……つまりアルコールの薄めたのを、二杯ほどあおって、あとは清酒のお燗したのをうまそうに飲んだ。飲みながら店の親爺と話をした。

「身投げのことを、絵や文章には、真逆様に飛びこむように書いてあるが、あれは嘘だよ。男でも女でも、逆様になんかなかなか飛びこみはしない。せいぜい横っ倒しで、たいていは立ったままの姿勢さ。水泳の飛び込みとは違うからね。やっぱり怖いんだな。或る時、寒い所で、女が身投げをしたことがあった。飛びこんだのが池で、氷がはりつめてたもんだから、両足は水にはいったが、大きな尻が氷につかえて、どうにも身動きが出来ず、もがいてるところを救いあげられた、という話があるよ。」

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