坂口 安吾
観念的その他
私の小説が観念的だといふのは批評家の極り文句だけれども、私の方から言ふと、日本の小説が観念的でなさすぎる。
小説が観念的でなければならぬといふ筈はないけれども、日本人の生活には観念の生活が不足だと思はれる。観念も亦実際の生活で食慾色慾物慾、観念なしにそれらのものが野放しにされてゐるやうな生活は、その方が実在するものではない。
我々の思想生活といふものは観念によるもので、小説が「観念的」でなくてよい、といふ場合は、観念生活のあげく観念によつて観念をはぎとることができた時にのみ意味をもつものだと私は思ふ。したがつて、この意味の「観念的でない」ことは観念によつてさうなつたといふことであり、私がサルトルの「水いらず」に感心したのはその点で、フランスの恋愛小説の歴史に於ては最後の役割(現在までの。これからは更に又進歩の歴史はつゞくであらう)を果したものであつたと思ふ。
このことは又、別の意味にサルトルを解する手段ともなる。フランスの恋愛小説を歴史的に見た時には新しい手法としての意味があるが、それは一つの手法としてのことであつて、手法を差引いて何が残るか、これは疑問だ。