坂口 安吾
雨宮紅庵
伊東伴作は親代々の呉服商であつた。学問で身を立てようとしたこともあつたが、一向うだつがあがらないので、このごろは親代々の商人になりすましてゐた。
或日雨宮紅庵といふ昔馴染が、見知らない若い女を連れてきて、この人は舞台俳優になりたいさうだが世話をしてくれないかと伊東伴作に頼んだ。なるほど伊東伴作はその方面に二三の知人がないではないが、女優を推薦するほどの柄も器量もある筈がなし、それに打見たところ女は容姿こそ十人並以上の美しさと言へるが、これといふ特徴がなく、外貌の上ばかりではなく内面的にも全てがその通りの感じで、却つて白痴的な鈍重さが感じられるほどの至つて静的な女に見受けられるから、自分には女優を推薦するほどの手蔓もなし器量もないのでと言つて断つた。ところが雨宮紅庵は伊東伴作の気持には一向平気なもので、尠しもぢもぢしたが、それも心底から間がわるさうな様子ではなく、却つて図々しさを暗示するやうな押しつけがましいものに見えた。さうして、必ず舞台女優でなければといふわけではなく、レビュウの踊子でもいいんだからと、独語でも呟く工合にブツブツ口の中で言つてゐたが、又その次には違つた調子で、グイと膝をのりだしながら、ダンスホールのダンサアだつていいんだから一通りのソシアルダンスを覚える手蔓だけでも与へてくれないかと言ひだしたりした。
雨宮紅庵は三十七歳であつた。これといふ定まつた職業も持たず、とりたてて言ふべきほどの希望といふものも持つやうには見えず、すくなくとも希望を懐いて励むといふ風情は何事に就ても見受けられず、妻子もなく、財産もなく、時々住む家もなかつた。その代り、将棋と囲碁は田舎初段