坂口 安吾

閑山

昔、越後之国魚沼の僻地に、閑山寺の六袋和尚といつて近隣に徳望高い老僧があつた。

初冬の深更のこと、雪明りを愛づるまま写経に時を忘れてゐると、窓外から毛の生えた手を差しのべて顔をなでるものがあつた。和尚は朱筆に持ちかへて、その掌に花の字を書きつけ、あとは余念もなく再び写経に没頭した。

明方ちかく、窓外から、頻りに泣き叫ぶ声が起つた。やがて先ほどの手を再び差しのべる者があり、声が言ふには「和尚さま。誤つて有徳の沙門を嬲り、お書きなさいました文字の重さに、帰る道が歩けませぬ。不愍と思ひ、文字を落して下さりませ」見れば一匹の狸であつた。硯の水を筆にしめして、掌の文字を洗つてやると、雪上の陰間を縫ひ、闇の奥へ消え去つた。

翌晩、坊舎の窓を叩き、訪ふ声がした。雨戸を開けると、昨夜の狸が手に栂の小枝をたづさへ、それを室内へ投げ入れて、逃げ去つた。

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