坂口 安吾
温浴
今の家へは、温泉がぬるいというのを承知の上で越してきた。
伊東は市ではあるが、熱海とは比較にならないほど、ひなびている。けれども温泉場であるから、道路には広告塔があって休むことなく喋りまくり唄いまくっているし、旅館からは絶え間なくラジオががなりたてて、ヘタクソなピアノもきこえる。先方も商売であるから、静かにしろ、と云うわけにはいかない。
よそは住宅難だが、伊東には売家も貸家も多い。伊東は海山の幸にめぐまれて食糧事情がよかったが、東京も食糧事情がよくなったので、不便を忍んで通勤していた人たちが東京へ戻りはじめたのである。
閑静で温泉もあるという家は売家だから住めない。貸家の方はたいがい山の上の温泉のない家で、ぜひ住んでくれないかと云ってきた空別荘も、景勝閑静な山荘であったが、温泉がなかった。