戸坂 潤
範疇としての空間に就いて
〔一〕
先ず範疇に就いて一般的に考えて見ることが必要であると思う。範疇は云うまでもなく哲学の根本的な問題であり又終局的な課題でもあるであろう。古典的な起源と複雑な歴史的変遷とに加えて、現在に於て又将来に於て、人々は夫々云おうとする処を云うであろう。範疇は何であり又何で無いか、何が範疇であり又何が範疇でないかを議論するであろう。私は併しながら之を議論し之を決定しようとは思わない。ただ多くの所謂範疇論がとった様々の形の基に、或る一定の「条件」があり或いは又無いということだけを取り出して見ることが出来るならば、充分である。
吾々は事実に面接して生きており、吾々は事実を見そして之を語る。茲に事実とロゴスとが対立している。ロゴスは吾々の側に於てあり、事実とは吾々の彼岸に於てあることであるから、この対立が正しく主観的と客観との対立――主観客観という概念を出来るだけ一般的にするならば――なのである。このような意味に於て、認識は主客の対立なくてはあり得ない。縦え主観が客観を構成するのであると云っても、「与えられたもの」「課せられたもの」――之が一般的な意味で客観である――なくして構成が成り立ち得ようか。主客の対立を先ず許しての上でなければ、主観が客観を構成するという転回的な言葉も実際上は虚しい合言葉に終る外はない。認識は主客の対立を予想する。故に逆に主客の対立を予想する一切の立場は、この意味に於て、「認識論的」な立場であると云うことが出来る。さて範疇は嘗てロゴスと共に始まった。アリストテレスの範疇表が文法に由来する――併し之はその偶然であることを証明するのではなく寧ろ却って今私が云うていること