チェーホフ アントン

犬を連れた奥さん

一

海岸通りに新しい顔が現われたという噂であった――犬を連れた奥さんが。ドミートリイ・ドミートリチ・グーロフは、*ヤールタに来てからもう二週間になり、この土地にも慣れたので、やはりそろそろ新しい顔に興味を持ちだした。ヴェルネ喫茶店に坐っていると、海岸通りを若い奥さんの通って行くのが見えた。小柄な薄色髪の婦人で、ベレ帽をかぶっている。あとからスピッツ種の白い小犬が駈けて行った。

それからも彼は、市立公園や辻の広場で、日に幾度となくその人に出逢った。彼女は一人っきりで、いつ見ても同じベレをかぶり、白いスピッツ犬を連れて散歩していた。誰ひとり彼女の身許を知った人はなく、ただ簡単に『犬を連れた奥さん』と呼んでいた。

『あの女が良人も知合いも連れずに来てるのなら』とグーロフは胸算用をするのだった、『ひとつ付き合ってみるのも悪くはないな』

青空文庫の作品カード