中井 正一
探偵小説の芸術性
ラテン語で書かれたすべての哲学書がいつでもイヴの犯した罪なしには書きはじめられなかったように、ドイツ語のあらゆる哲学書も歴史の末にあるという最後の審判なしにはその本を書き終ることができない。哲学の本はいつでもこの古い林檎の臭いがしている。
歴史は、いわば、罪より裁判へ、一つの犯罪的興味の上にある。パスカルの賭けはその裁判に賭けられた滲み透る賭けともいえよう。人の償いがたき罪、その罰を寂しくも待つこころもち、その嘆きと願い、祈りに満ちた問い、この問いこそ、ハイデッガーの指摘する時のすがたであり、原罪の意味なのである。それは存在の深い暴露である。
罪と罰、それ自身、償いがたき過去と現在の情趣である。過去と現在が撓わにまで未来に押し迫る深い情趣である。ドストエフスキーの『罪と罰』の背後には人類全体の上に覆いかぶさる罪の情趣がひろがっている。一篇全体が罪の悔いの中に切り緊められている。ユーゴーの『レ・ミゼラブル』の一篇も最も深い一把みの哀感は許さるべきしかも許されなかった罪の裁きである。文学が社会構成を基礎にしているかぎり、罪なしには悲劇は成立しない。ひろい意味でいえばあらゆる悲劇が犯罪性をもっている。
ただ、今、一般に一片の冷笑をもってよばるる探偵ものは、いかなる構造のもとに嘲罵されながらしかも窃かに愛読されつつあるかをここに顧みる必要がある。