岸田 国士
計算は計算
一
悪夢のやうな戦争がすんで、その悪夢の名残りとも思はれる重苦しい気分が、まだ続いてゐるいく年か後のことである。
もう五十を二つ三つ越して、十年一日のやうな教師といふ職業に、すこし疲れをおぼえかけた守屋為助は、性来、ものごとにこだはらず、どこまでも善意をもつて人に接するといふ風な人物であつたにも拘はらず、近頃、ふとしたことに思ひ悩んで、めづらしく暗い顔を家のものにも見せるやうなことがある。
A大学教授、といふ新しい肩書ですこし鼻を高くするほどの稚気はさらさらなく、昔ながらの高等学校教師でゐたいと、いつも口癖のやうに言ひ言ひするのを、妻の杉江は、それはさうあらうと、夫の言葉をそのまま信じ、別に俸給の率に関係さへなければ、その方が夫の人柄にふさはしいのにと、ひそかに、大学教授といふいかめしい肩書を恨んでゐるくらゐであつた。