岸田 国士

コクトオの『声』その他を聴く

最近、仏蘭西版の新しい舞台のレコオドを幾枚か聴く機会を与へられた。

コクトオの「声」はベルト・ボヴィイといふ女優、ミルボオの「事業と事業」を例のフェロオヂイ、ラシイヌの「アンドロマアク」を名悲劇女優バルテといふ風に、僕の耳と心は、再び、十年前の巴里へ舞ひ戻つた次第だが、僕は今ここで、この晩の楽しく、且つ、胸を打たれた数刻の印象を物語らうとするのではない。

何よりも先に云ひたいことは、僕が嘗て仏蘭西の芝居を観、俳優の演技を通じて、戯曲の立体化――殊に、書かれた白の肉声化といふものにある標準を与へられ、爾来、戯曲を読むたびに、舞台の聴覚的幻象がほぼそれに近く浮ぶといふ自信を得たつもりでゐたのであるが、十年を経た今日、読んで間のない戯曲、例へば、コクトオの「声」や、パニョオルの「マリウス」などが、俳優によつて、かくの如く肉声化されようとは全く思ひ及ばなかつたといふことだ。一口に云へば、読んだ時より、数層倍面白くなつてゐるので、僕は愕き、面食ひ、自分を疑ひはじめた。しかし、なるほど、心を落ちつけて考へてみると、十年前に通ひつめた仏蘭西の舞台が、僕を惹きつけ、つかみ、揺すぶつたのは、実にこれなのだ。現に日本の舞台を観て、仏蘭西のそれとの距りをはつきり感じ、絶えずそのレベルを仰望しながら、さて、年月を経るに従ひ、総ての印象記憶がさうである如く、僕の舞台的印象も亦生気と密度を失ひ、一種の「捉へ難き昔の面影」となり終つてゐたに違ひないのである。今、久々で、かのベルト嬢の、フェロオヂイ翁の、そしてかのララ夫人の声と調子が「生なましく」この耳に響いて来るに及んで、総ては急に蘇つた。これでこそ、語ら

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