岸田 国士

巴里で観たイプセン劇

私は夙に近代劇の研究はイプセンから始めなければならぬと教えられてゐた。然るに私は、日本を離れるまで、二篇の邦訳を手にしただけである。巴里に来て、近所の貸本屋から、プロゾオルといふ人の仏訳を借りて来て、毎日読み耽つた。あれでたしかイプセンの作品は全部読んだ筈である。

これから実際の舞台を観なければならぬ。それには幸ひルュニェ・ボオのメエゾン・ド・ルウヴル(創作の家)がある。スカンヂナヴイヤの戯曲を殆ど専門にと云つてもいいぐらゐ演つてゐる劇場である、私は先づそこで「人形の家」を観た。

スュザンヌ・デプレ夫人のノラは私の空想とは似てもつかないものだつた。私の空想とはどんなものかといふと、それは、ただ戯曲を読んだ時の印象からのみ得た空想ではなくて、たしか松井須磨子の扮したノラの記憶がその土台になつてゐたのである。

デプレ夫人は、これこそ女優には珍しい質朴な顔立で、その上、これはまた女とも思へぬほどガッシリしたからだつきの……やはり、女である。名優が常にもつてゐるあの深い眼ざしが、彼女の特殊な才能を物語つてはゐるがどう見ても「小鳥」の柄ではない。

青空文庫の作品カード