岸田 国士

「抽斗にない言葉」

古典劇の伝統と、新派浪漫劇の様式は、それ自身、ある「せりふ」廻しなるものを形づくつたが、それらの俳優は、また、それぞれ、修業の過程と工夫の範囲に於いて、各自独特の「声色」を生むに至つた。

更にまた、文芸協会以来の翻訳的「せりふ」型は、多少の推移はあつたにせよ、大体、芸術座調と築地調とに区別される現代劇のディクシヨンを決定し、これまた、その畑に育つた俳優の個人的鍛錬によつて、ある程度の多様性を示しつつある。

ある様式の演劇が、ある「せりふ」の型を破り得ないことは、何れの国の古典劇を見てもわかることであつて、たまたま、その型を破らうとした舞台革命家の試みが、ある程度まで達成し得た例を、私はジャック・コポオに於いてのみ見たのであるが、日本の古典劇に於いて、その希望はやや困難なやうである。

ただ、ここで問題にしなければならぬのは、何れの畑に属する俳優にもせよ、ひとたび現代劇を演ずる場合に、ある種のマンネリズムに陥つた「せりふ」廻しを固執し、舞台の生命を希薄にすることが、今日、さほど注意されてゐないことである。

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