中里 介山
大菩薩峠
一
夜が明けると共に靄も霽れてしまいました。天気も申し分のないよい天気であります。幸内は能登守の屋敷から有野村の伊太夫の家へ迎えられることになりました。
有野村へ迎えられて幸内が、その今までの経過をすっかり物語りさえすれば、万事は解釈されるのでした。神尾主膳の残忍さ加減と、その屋敷にいる盲剣客の一種異様なる挙動とが、幸内の口から明らかになりさえすれば、それを聞く人々は或いは仰天し、或いは戦慄しながら、事の仔細を了解するはずでありました。けれども不幸にして、送り返された幸内なるものは、ただ送り返されたという名前だけに過ぎません。まだ屍骸というには早いけれども、とても生きた者として受取ることはできないほどであります。
幸内は口が利けないのみならず、手も利きませんでした。手が利かないのみならず、身体が利きませんでした。それらのすべての機関が働かないにしても、眼だけでも動けば、多少ものを言うのであろうけれど、その眼も昏々として眠ったままでいるのであります。ただ動いているのは、微かなる脈搏のみであります。