中里 介山
大菩薩峠
一
下谷の長者町の道庵先生がこの頃、何か気に入らないことがあってプンプン怒っています。
その気に入らないことを、よく尋ねてみるとなるほどと思われることもあります。それは道庵先生のすぐ隣の屋敷地面を買いつぶして、贅沢な普請をはじめたものがあるのであります。道庵先生ほどのものが、他人の普請を嫉むということはありません。その普請が出来上るまでは、先生は更に頓着をしませんでしたけれども、いよいよ出来上って、その事情が知れた時に、先生が非常に憤慨してしまいました。その普請というのは、そのころ有名な鰡八大尽というものの妾宅なのであります。
鰡八大尽というのは、その頃の成金の筆頭でありました。みすぼらしい棒手振から仕上げて、今日ではその名を知らないもののないほどの大尽であります。それは国内に聞えた大尽であるのみならず、外国人を相手に手広い商売をしました。糸の取引をしたり、唐物の輸入をしたり、金銀の口銭を取ったり、その富の力の盛んなことは、外国までも響き渡るほどの大尽でありました。