中里 介山
大菩薩峠
一
八幡村の小泉の家に隠れていた机竜之助は、ひとりで仰向けに寝ころんで雨の音を聞いていました。雨の音を聞きながらお銀様の帰るのを待っていました。お銀様は昨日、そっと忍んで勝沼の親戚まで行くと言って出て行きました。今宵はいやでも帰らねばならぬはずなのに、まだ帰って来ないのであります。
お銀様は、竜之助を連れて江戸へ逃げることのために苦心していました。勝沼へ行くと言ったのも、おそらくは親戚の家を訪わんがためではなくて、いかにして江戸へ逃げようかという準備のためであったかも知れません。
こうして心ならずも小泉の家の世話になっているうちに、月を踰えて梅雨に打込むの時となりました。昨日も今日も雨であります。明けても暮れても雨であります。ただでさえ陰鬱きわまるこの隠れ家のうちに、腐るような雨の音を聞いて竜之助は、仰向けに寝ころんでいるのであります。