沖野 岩三郎
山さち川さち
一
昔、紀州の山奥に、与兵衛といふ正直な猟夫がありました。或日の事いつものやうに鉄砲肩げて山を奥へ奥へと入つて行きましたがどうしたものか、其日に限つて兎一疋にも出会ひませんでした。で、仕様事なしに山の頂から、ズツと東の方を眺めて居ますと、遙か向ふから蜒々とした細い川を筏の流れて来るのが見えました。
「あの筏が丁度この山の麓まで流れて来る間に俺はこゝから川端まで降りて行かれる。そして俺はあの筏に乗つて家へ帰らう。さうぢや、それが宜い。」
与兵衛はさう考へながら、山の頂から真直に川の方へ、樹の枝に攫りながら、蔓に縋りながら、大急ぎに急いで降りて行きました。そして川岸から三十間ばかり上の方まで来た時、右手の岩の上の大きな樫の枝が、ザワ/\と動くのが逸早く与兵衛の眼に映りました。