牧野 信一

「風博士」

厭世の偏奇境から発酵したとてつもないおしやべりです、これを読んで憤らうつたつて憤れる筈もありますまいし、笑ふには少々馬鹿/\し過ぎて、さて何としたものかと首をかしげさせられながら、だんだん読んで行くと重たい笑素に襲はれます。この笑素は化学読本で御存じのあの酸素中の一原素の謂です。決してペーソスなんていふしやれたものではなくて、それはとても悠長なトアパイロン見たいな、出来損ひのアミーバ見たいな奇怪なデタラメさ加減なのですが、さうかと思ふと洒落たアカデミアンで、読んでゆくうちに何だか得体の知れない信用を覚えさせられて来るのです。

そんな感じの小説を読みました。二三日前に、この頃読んだ小説のうちで傑れたものといふ質問をうけた時、私は何うしたことだつたか何時にも小説を読まなかつたことに気づき、慌てゝ傍らの一冊の雑誌をとりあげたところ、そんなやうな不思議な風みたいな作品を発見しました。風と云へばその中には斯んな個所があります。「諸君、偉大なる博士は風となつたのである。果して風となつたか? 然り、風となつたのである。何となればその姿が消え失せたではないか、姿見えざるは之即ち風である乎? 然り、之即ち風である。何となれば姿が見えないではない乎。これ風以外の何物でもあり得ない。風である。然り風である。風である風である。」

「諸君、彼は余の憎むべき論敵である。単なる論敵であるか? 否否否。千辺否。」

「かりに諸君、聡明なること世界地図の如き諸君よ、諸君は学識深遠なる蛸の存在を認容することが出来るであらうか? 否否否。万辺否。」

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