北村 透谷

客居偶録

其一 旅心

暫らく都門熱閙の地を離れて、身を閑寂たる漁村に投ず。これ風流韻事の旅にあらず。自から素性を養ひて、心神の快を取らんとてなり。わが生、素と虚弱、加ふるに少歳、生を軽うして身を傷りてより、功名念絶えて唯だ好む所に従ふを事とす。不幸にして籍を文園に投じ、猜忌の境に身を※(「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28)めり。斯の如きは素願にあらず、希くは名もなく誉もなき村人の中に交りて、わが「真村」をその幽囚より救はんか。

其二 夏休

天の炎暑を司る、必らずしも人を苦しむるのみにあらず。居常唯だ書籍に埋もれ、味なき哲理に身を呑まれて、徒らに遠路に喘ぐものをして、忽焉、造化の秘蔵の巻に向ひ不可思議の妙理を豁破せしむるもの、夏の休息あればなり。学校より帰る人は、久しく疎遠なりし父兄の情を温め、官省の職務より離るゝものは、家を携へて適好の閑を消す、斯くの如きは夏の恩恵なり。ひとり文界の浪士のみ之を占むるにあらず、無名の詩人、無文の歌客、こゝやかしこにさまよふめり。

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