国枝 史郎
娘煙術師
楽書きをする女
京都所司代の番士のお長屋の、茶色の土塀へ墨黒々と、楽書きをしている女があった。
照りもせず曇りもはてぬ春の夜の朧月夜にしくものはなしと、歌人によって詠ぜられた、それは弥生の春の夜のことで、京の町々は霞こめて、紗を巻いたように朧であった。
寝よげに見える東山の、円らの姿は薄墨よりも淡く、霞の奥所にまどろんでおれば、知恩院、聖護院、勧修寺あたりの、寺々の僧侶たちも稚子たちも、安らかにまどろんでいることであろう。鴨の流れは水音もなく、河原の小石を洗いながら、南に向かって流れていたが、取り忘れられた晒し布が、二筋三筋河原に残って、白く月光を吸っていた。