牧野 信一
F村での春
夜、眠れないと云つても樽野のは、それだけ昼間熟睡するからなので、神経衰弱といふわけではなかつた。朝寝と宵ツ張りが次第に嵩じて、たゞ昼と夜とが入れ違つてゐた。寝つきの悪さと、朝の目醒め時の不機嫌さでは小さい頃から樽野は、周囲の人達に酷い迷惑をかけ続けて来た。彼の母親は、寝せつけようとすればする程如何しても鎮まらない彼を抱いて、夜更けに屡々海辺をさ迷ひ歩かなければならなかつた。何といふ強情な、煩い赤ん坊なんだらう! と、奥の方で彼の祖父が舌を鳴すのが聞えるからだつた。自殺を覚悟してゐる者と、母は見誤られたことも一度あつたが、それを打ち消す気もしなかつた――と母は云ふ。自分が悲しくなつて幼児を抱いたまゝ砂の上に坐つて途方に暮れてゐたのだから、
「未だ浜などに降りる人は珍らしい、薄ら寒い春先きだつたもの!」
「…………」
「夜更だつたかしら? いや、朝早くだつた! 背中を叩いた人は見知らない浜の者だつた、今だにあの人の顔を覚えてゐる! 暫く背後で様子を窺つてゐたんだつて!」